税金の基礎
役員賠償責任保険(D&O)は一人社長に要るか。会社法429条と保険料の税金
結論
一人社長でも、会社法429条により職務上の悪意・重大な過失で第三者に与えた損害は個人で賠償する責任を負うため、D&O保険の対象になるリスクはあります。保険料は、株式会社なら会社法430条の3の株主総会決議(一人株主は書面決議で足りる)で契約内容を決めれば、会社が負担しても役員への給与課税は不要です(国税庁・令和2年9月30日の情報)。
- 第三者からの損害賠償を担保する部分の保険料は、平成6年の文書回答以来、会社負担でも給与課税されない
- 給与課税が問題になるのは株主代表訴訟敗訴時の担保部分。430条の3の決議を経れば会社負担でも課税なし
- 決議を欠き給与課税される保険料が年20万円なら、月54万円の社長は基礎控除が104万→67万円に落ち、税負担が年11.9万円増える(試算)
このテーマの全体像 法人の経費と個人事業の経費の違い
D&O保険は上場企業の役員のための保険と思われがちですが、損害保険会社は中小企業向けにも販売しています。法人化した一人社長が検討するときに押さえるべき点は2つです。法人化によって社長個人が負う責任の形がどう変わるか、そして保険料を会社が払っても社長の給与にならない条件です。
法人化すると、責任は「無限」から「有限+例外」に変わる
個人事業主は、事業上の債務も損害賠償も、すべて事業主本人の責任です。仕事のミスで取引先に損害を与えれば、民法709条の不法行為責任や契約上の責任を個人の財産で負います。上限はありません。
法人化すると、会社の債務は原則として会社が負います。株式会社の株主の責任は、引き受けた株式の価額が限度です(会社法104条)。ここだけ見ると、法人化は責任を軽くします。
ただし会社法は、役員個人に責任を戻す規定を2つ置いています。
| 条文 | 誰に対して | 責任が生じる場面 |
|---|---|---|
| 会社法423条 | 会社 | 役員が任務を怠り、会社に損害を与えたとき |
| 会社法429条1項 | 第三者(取引先・顧客など) | 職務を行うについて悪意または重大な過失があったとき |
| 会社法429条2項 | 第三者 | 計算書類の虚偽記載・虚偽の登記・虚偽の公告など(注意を怠らなかったことを証明できれば免れる) |
429条の責任は、会社が払えないから社長が肩代わりするという性質のものではありません。悪意・重過失があれば、会社とは別に社長個人が第三者へ直接賠償します。
合同会社も同じ構造です。社員の責任は会社財産で完済できない場合の補充的なもの(会社法580条)ですが、業務を執行する社員は、職務上の悪意・重大な過失で第三者に生じた損害を連帯して賠償します(会社法597条)。
一人会社で現実に問題になるのは429条のほう
423条の責任を追及するのは、会社自身か株主代表訴訟の株主です。社長が株式を100%持つ一人会社では、自分で自分を訴える人がいません。
一方、429条の請求は取引先や顧客など会社の外から来ます。株主構成と関係なく起こり得ます。一人社長にとってのD&O保険は、主にこちらへの備えです。
保険料の税務は「どの部分か」と「手続」で決まる
D&O保険は、会社が契約者として保険料を払い、役員個人が被保険者になります。役員個人のための保険を会社が負担するので、役員への**経済的利益(給与)**にならないかが問題になります。国税庁の扱いは2段階で整理されています。
第三者訴訟の担保部分:平成6年から給与課税なし
平成6年の文書回答では、保険料を2つに分けました。
- 基本契約(第三者からの請求、役員勝訴時の争訟費用)の保険料:会社負担でも給与課税なし
- 株主代表訴訟で役員が敗訴したときの担保特約の保険料:会社負担なら給与課税
第三者に対する責任の保険は、会社の業務遂行に伴う危険の担保と整理されたためです。一人社長が主に備える429条の部分は、もともと課税の対象外です。
代表訴訟敗訴時の担保部分:430条の3の決議を経れば給与課税なし
平成28年の情報で、会社法上の利益相反手続を経れば代表訴訟敗訴時の担保部分も会社が負担してよいとされました。続いて令和元年の会社法改正で、役員等賠償責任保険契約の内容は株主総会(取締役会設置会社は取締役会)で決議すると定められました(会社法430条の3第1項)。
国税庁が令和2年9月30日に周知した経済産業省の文書では、この規定に基づいて会社が保険料を負担すれば、会社法上適法な負担として、役員個人への給与課税は不要とされています。
一人株主の会社なら、株主総会は書面による全員同意で決議に代えられます(会社法319条)。手続そのものは重くありません。ただし議事録(同意書)を残していなければ、決議の存在を後から示せません。
計画段階では「会社法430条の2」を確認する予定でしたが、条文を読むと430条の2は役員への費用補償の補償契約の規定でした。D&O保険の決議を定めるのは430条の3です。
手続を欠いて給与課税されると、税はいくら増えるか
決議がないまま代表訴訟敗訴時の担保部分を会社が負担すると、従前どおり役員への経済的利益として給与課税されます。年1回の保険料払込で生じる利益は「毎月おおむね一定」の経済的利益(法人税法施行令69条1項2号)に当たらないため、ここでは定期同額給与に該当せず法人の損金にもならないものとして試算しました。
保険料の相場は一次情報で確認できなかったため、以下の額は計算のための仮の額です。
売上1,200万・経費200万(東京23区・株式会社・最適報酬 月54万円)
| 給与課税される保険料(仮の額・年) | 手続あり:法人税等の減少 | 手続なし:法人税等の増減 | 手続なし:役員の所得税・住民税の増加 | 手続ありとの差(年) |
|---|---|---|---|---|
| 10.0万円 | 2.1万円 | 0.0万円 | 1.6万円 | 3.8万円 |
| 20.0万円 | 4.3万円 | 0.0万円 | 7.6万円 | 11.9万円 |
| 30.0万円 | 6.4万円 | 0.0万円 | 10.3万円 | 16.7万円 |
売上2,000万・経費500万(同条件)
| 給与課税される保険料(仮の額・年) | 手続あり:法人税等の減少 | 手続なし:法人税等の増減 | 手続なし:役員の所得税・住民税の増加 | 手続ありとの差(年) |
|---|---|---|---|---|
| 10.0万円 | 2.3万円 | 0.0万円 | 1.6万円 | 4.0万円 |
| 20.0万円 | 4.6万円 | 0.0万円 | 7.6万円 | 12.2万円 |
| 30.0万円 | 7.0万円 | 0.0万円 | 10.3万円 | 17.3万円 |
※ 計算エンジンで算出(scripts/yakuin-baisho-sekinin-hoken.mjs)。役員報酬は判定ツールの最適額(月54万円)に据え置き、社会保険料は変えていない。手続ありは保険料を損金算入、手続なしは表の額を役員給与として損金不算入・給与課税とした場合。令和8年分の税率・控除。
10万円と20万円の間で税負担が跳ねる理由
保険料10万円なら税の増加は1.6万円ですが、20万円では7.6万円に跳ねます。月54万円の役員報酬の給与所得は474.4万円です。経済的利益が17.6万円以上加わると合計所得金額が489万円を超え、令和8年分の所得税の基礎控除が104万円から67万円に下がるためです。
最適報酬の帯は、令和8年・9年分の基礎控除の特例加算の境目のすぐ下にあります。社長への経済的利益が少額でも、この境目を越えると控除が37万円減ります。同じ構造は社員旅行を一人社長が使ったときにも現れます。
判定ツールの結果にどう足すか
手続を経た保険料は会社の経費です。判定ツールで法人化の比較をするなら、保険料の見積額を年間経費に足すと、法人側の手取りの概算に反映できます。ただし個人事業主のまま同じ補償を買う手段は事業主向けの賠償責任保険で、補償の範囲が違います。経費を個人側にも同額足すと比較が歪みます。
売上1,200万・経費200万の条件では、判定ツールの差額(2年目以降)は**−14.7万円**、売上2,000万・経費500万では+23.9万円です。D&O保険の保険料は、法人化の損得を左右するほどではなくても、差が小さい帯では無視できない固定費になります。
法人化で増える固定費の全体像は法人化のデメリット7つに、法人契約の生命保険の損金区分は法人保険は全額損金にならないにまとめています。役員個人を守る保険でも、所得補償保険は保険料と保険金の扱いが別の考え方になります。
まとめ
- 法人化すると会社の債務は原則として会社が負うが、社長は会社法429条(合同会社は597条)で悪意・重過失による第三者の損害を個人で賠償する
- 一人会社では株主代表訴訟の相手がおらず、D&O保険で備える中心は第三者からの請求
- 第三者訴訟を担保する部分の保険料は、会社負担でも給与課税されない(平成6年から)
- 代表訴訟敗訴時の担保部分も、株式会社が会社法430条の3の決議を経れば給与課税なし。一人株主なら書面決議で足りる
- 手続を欠いて年20万円が給与課税されると、月54万円の社長は基礎控除の境目を越え、税負担が年11.9万円増える(試算)
保険料をいくら見込むかで差額は変わります。一般論の数字ではなく、自分の売上と経費で確かめてください。
よくある質問
個人事業主のときに入っていた賠償責任保険は、法人化後もそのまま使えますか?
個人事業主の賠償責任保険は事業主個人の事業を対象にした契約です。法人化後は事業の主体が会社に変わるため、契約者・被保険者を会社に切り替えるか新たに契約する必要があり、補償範囲は保険会社に確認が必要です。D&O保険は会社が契約者になり、役員個人を被保険者とする別の保険です。
一人会社でも株主代表訴訟のリスクはありますか?
社長が発行済株式の全部を持っている間は、社長以外に代表訴訟を起こす株主がいません。株式を家族や出資者に持たせた場合や、事業承継・売却で株主が変わった後は、その株主が役員の会社に対する責任(会社法423条)を追及する可能性が生じます。
合同会社の社長も会社法429条の責任を負いますか?
合同会社の業務執行社員は、会社法597条で、職務上の悪意・重大な過失により第三者に生じた損害を連帯して賠償する責任を負います。ただし役員等賠償責任保険契約の決議手続を定めた430条の3は株式会社の規定で、国税庁の令和2年の情報も株式会社を前提にしています。
出典
本記事は2026年(令和8年)分 基準の制度にもとづく一般的な解説であり、税務上の助言ではありません。 制度は毎年改正されます。実際の判断は最新の一次情報を確認のうえ、税理士等の専門家にご相談ください。 内容に誤りを見つけられた場合は お問い合わせ よりご指摘ください。